昭和56年8月10日 月例祭

えー、いよいよ夏の大祈願祭を、数日後にせまりましたが、(夏の?)御大祭は、みなさんご承知の通り、祈願大祭です。願いのお祭りです。ですから、お互い願いをいっぱい持っておりますと同時に、段々信心の稽古をさせて頂いて、ね、一回りづつでも、大きくならせてもらおうと。
昨日、北野の秋山総代さんが、先日から一回り大きゅうなれと言われるが、どうゆうようなことでしょうか、と、どうゆうような信心させてもらうことが、一回り大きくなることでしょうかと。これはね、私は、祈りの実感だと申しました。自分が祈らせて頂いておることを(  ? )というて、いうならやむにやまれん思いで祈っておる祈りが、ただ、私的な、自分の一家のことだけに一生懸命、そりゃ祈らにゃませ、祈らなならんけれども、一回り大きくなるということは、例えば御教会のこと、なら御教会のことがです、ね、もうそう祈らずにはおられない。ただ祈り言葉で、申し(ぶつ?)だけならば、ね、それこそ(てんがくかの?)ことに、いたるまででもね、祈れます。言葉に出して言えます。けれどもそれが祈らずにはおられないという実感です。ね、自分のこと、自分のことの場合願わずにはおれないという、その願わずにはおれないという心が、祈りが大きくなっていくということが、一回りづつ信心を大きくしていくことだよ、という風にもうしましたら、お互いどうでしょうか、いうならば願いの信心というても、ただ自分の我情であり、我欲であるということを、もう今度の御次祭に、あのことも、このことも、そうよその、まあ私的なことも、願いをさせてもらわんなら、願いを込めなきゃならんということと同時に、本当に神様が合点してくださる、喜んでくださる、そうゆう祈りが実感として、願いれる一つの祈願大祭にならねばならんというふうに私は思います。一回りづつ大きくなっての願いであり、祈願大祭でなからなきゃならない。みなさんどうゆうようなことを実感として願え、やむにやまれんということ。先ほど、今日は中村先生が前講を勤めておりましたが、えーなかなかいいお話をしておりました。そして(パシパシ?)なりましたから、(あたより?)上とかでまあ所々ぐらい聞こえる。中に私の耳にまあ響いてきたことですけども、私どもが例えばね、かゆうしてたまらんというところがある。ね、親先生はいつも信心の根本は親孝行にあると言われる。誰も親不孝したいというもんはおらん。ね、親孝行はせねばならんとも知っている。けれども親孝行がせずにはおられんという者はすくない。信心させて頂くならば、その少ない親孝行して、させて頂かずにはおれんという、かゆいときにかかずにたまらんというように、ね、親孝行せずにはたまらんというような、心をというな話をしてましたでしょ。あー上手いこと言っておると思った。親孝行せねばならんと思っておりますじゃなかもん。もうそれこそ、かかずにはおられんと、ガリガリかかずにはおられん。どうゆうことであっても、いや親孝行したいと思って、うちの親ばっかりには、孝行したことがなかっちいったもん。ね、(そこにきな?)信心が分かってくると、例えば親は親、(ただのとも?)とおっしゃるのですから、ね、やはり子供としての、親孝行がせずにはおれない、喜ばせずにはおかんという、その切実心がね、いるということを話しておりましたけれどもね。
えー今日、石井さんと、(くらもと?)さん親子が、昼お参りさせてもらって、長崎の方へお墓がある。盆前にどうでもお墓の掃除行かなならん。12日の日に行きたいと思いますから、あーお繰り合わせを願いますとこう。お繰り合わせを頂かなければ行かれん。(しんち?)のバスとかまた通っていけなかったというようなことじゃなくて、あの、どうでも絶対行くということに決めなさいと。昔からお墓掃除はどこよりも先にせん、(思いばかぐちを?)私の母がそんな風に言いよった。盆の集金がね、例えば入れなきゃならん。(おもいばかが?)行く度どこよりも早く、あのお墓掃除に参りました。だからそのことをちょっと思い出したからね、今日はもうあのお繰り合わせ頂いたら、その長崎ですから遠いですけど、もう行くと決めてそしてそれを神様にお願いなさい。というてもうしましたけれどもね。例えば御大祭、ここで(あじを?)どうぞ頂きます、なるほどお繰り合わせを頂かねばいけませんけれども、もしお繰り合わせを頂けんでもです、これだけは絶対、どうでもお参りさせていただく。やはりそうゆうね、真に心が信心には必要のようですね。お都合いただいたらお参りしよう、というようものでは、止むに止まれんものでなからなきゃいけんない。
今日、んー梅山先生の奥さんがお届けに、この頃、うーとにかく100名からのお食事を作りますからね、えー中々炊事場の方も大変だろうと、こう、それに責任者今度変わった。ね、ですからやっぱり女のこばっかりで、例えばこうやっとることですから、というときはあの自分の思いどうりにならなかったり、カチンときたり、色々な人間関係もありましょう。そうゆうことを神様に、お願いをさせて頂いておりましたら、「お土産」という字を頂いた。みなさんお土産という字を書いてごらんなさい。お土産。カタカナじゃいかん、漢字で書かなん。ね、土を産むと書いてあるでしょうが。土産とゆう字は。ね、信心を頂いておるものが、ね、いつも産まなければならないことは、いうなら頂く信心から産みだす信心というふうにこう言われますけれども、その産みだす手立てとゆうものを、工夫してもです、ね、絶対この信心すれば産みだされると、聞いておっても、分かっておっても、実行しなかったら、いつまでたっても産みだすことにならん。いつも流産、流産である。また失敗しましたと。ね、女の方たちが例えばこうよって、色々有り難いもったいないことばかりやない。
今日高松先生が、あー(このことはべつ?)でしたけれども、お届けしておりましたら、いつか若先生、誰かのお取次を頂いた、光昭先生のお取次を頂いたときに、んー自分の思うように例えばならんといったときほど、本当の実験実証できるんだということを頂いて、確かにそうですと、自分の思ったどうりにトントン拍子に行くときはおかげおかげ、というけれども、本当の実験実証という実感がない。本当は自分の思いのままにならない、ときほど(ひろえば?)信心をいうならばいよいよ土の信心でです、ね、これを成り行きとして合掌して受けさせて頂けないとところを頂かせてもらうという信心実験から必ず、はー本当に黙って治めるということがこんなに素晴らしい、土の信心がこんなに有り難い、ということになるのです。素晴らしいですね、神様の智恵とゆうのは。そうゆう思いで神様にお届けされたら「お土産」と頂いた。御教えにもありますでしょ。ね、有り難く受けて返ればおかげは、ね、みやじは舟にも車にもつめぬほどの神徳がある。とおっしゃられます。せっかく(いとう?)時には、(さき?)お参りをする、お祭りを頂いて、説教を頂く。ね、ですから、それを私どもがね、本気でまぁ頂くという。ね、有り難く頂いて帰れば、おかげは船にも車にもつめぬほどの、お土産になるというのです。お土産も何も持って帰らんでは、こんなバカらしいことはない。そこでです、私どもが思いますのは、ね、信心がね、本調子になってくる。ゆうならば真の信心を目指さしてもらう。昨日の、朝のご理解でしたかね、人に誘われても証拠ともなしの信心は、とれやすい。どうぞその身から、打ち込んだ信心をせよ。というご理解がありますよね。人に誘われての証拠となしの信心。私そこんとこを誘われてじゃなくて、ゆうならおかげに誘われて、おかげを頂かなんから、眠たいばってん朝参りをせなならん。いつまで参って(まいよかと?)というようなことになってくる。ね、おかげに誘われての信心は証拠となしの信心なんだ。確かにそうです、あの信心の(はやるの?)方たちがお願いをして、おかげを頂いて、あー本当にもう素晴らしいおかげ頂いて、もうすぐ辞めますもんね。一つのおかげを頂くでも、本当に(かんなん信仰?)も修行をさせて頂いて頂いたおかげなら、くるわんけれども、あっという間に頂いたおかげは、そしてまた何かあった時にはまた参ってくる。ま、そうゆうことを繰り返しながら、段々本当の信心にお互いなっていくまで分かりましょうけれども、ね、すきやきばの信心ではなくて、どうぞその身から打ち込んだ信心ということ。ね、私はその身から打ち込んだ信心、いうならば真の信心に打ち込んだらです、もうこれはもう必ず誰でも、ね、お参りせずにはおられん、それこそ、かゆかときにかかずにはおられんように、ね、お参りせずにはおれない。それもお参りもただではない。色々と苦労させてもろうてから、お参りさせてもらはずにはおられない。ご都合頂いたら、お繰り合わせ頂いたらお参りしようといったようなもの、もありゃ、まだいうならば、つきやきばの信心だろうと思います。一生懸命参ったばってん、とうとうおかげ頂きじゃんかったと。というようなま、感じ取り方では、おかげにならん。どうでも焦点を真の信心ということにおいて、ね、信心の稽古をさせてもらう。神の一言を(千両の鐘?)にもかえがたい。ね、有り難く受けて帰ればおかげは船にも車にもつめぬほどの神徳がある。ね、おかげを頂かなければならんからというのは、自分の都合のよかとこだけしか頂いていかん。真の信心が本気で分かりたい、と心の中に求道の心をいつも燃やしておるとです、もうそれこそご理解の隅から隅までを、ね、頂いてそれを自分の血肉にしようとする精進努力をするのである。ね、みんなお土産になる。(いいよ?)という信心が徹底してできる。そこから産みだされるところのおかげ、なるほど、土産は船にも車にもつめぬほどの神徳になって現れてくるようなおかげを頂きたい。
今朝からも私何回も何回もあーお話していることですけれども、(せんだって?)から、(こうたき?)さんところの孫ですね、(こうたき?)総一郎くんが、えー(つつぎばやに?)色々神様から頂いておる。(ぬーと間?)に鉛筆を持てと言われるから、鉛筆とペンシルを持ってこう書いて字を覚えなかった。ひらがなばっかりこう書いとる。いうならば(おぶさき?)のようなものです。ね、その頂いておる一説にです、氏子あっての信心神徳というところがあります。氏子あっての信心神徳。私初めの間は、もう全然分からなかった。もう一生懸命(もたって?)からそこに書いてあるのをおいておりましたから、それを頂きよったら、はーこれは大変なことだな、大変な御教えだな、と分かってまいりました。氏子あっての信心なんだ、氏子あっての神徳なんだ、人間がいうならば幸福の条件が足ろうてくる。ね、しかも神の発動を受けられるようになったら、凄まじい働きが起ってくる、御神徳である。ね、そうゆう御神徳も牛や馬やらには与えることはできないとある。ね、氏子あっての神徳なんだよと。氏子あっての信心なんだよ。犬やネコに信心せよと言うてもできないでしょう。ね、だから人間ならそこに基づいて、信心させて頂くことによって、信心のお徳をいただく事ができる。人間の幸せの条件が足ろうてくる。しかもそれは、あの世にも持っていけ、この世にも残していけるというほどしのものである。そうゆう働きを受けられるのも人間だからである。神様がね本当に人間氏子に対してです、ね、信心しておかげを受けてくれよとこう頼むように言うておられる思いをそこに感じ聞くような思いがいたします。たくさんな人間、いわゆるたくさんな氏子がおりますけれどもそこに基づいて信行させて頂いておるものがどのくらいあるだろうか。ね、せめて私は合楽に御神縁頂いた方たちは、そうゆうひとつの自覚に立って、私でなかなければ頂けない、私でなかならければお徳は頂けない、神様はそう願っておられるのだから、信心をさせてもらわずにはおられん、お徳も受けさせてもらわずにはおられない、為には証拠となしの信心じゃでけん、おかげに誘われての信心じゃいかん。その身から打ち込んだ信心をさせて頂くことによって、天地の(ごはつお?)受けることができる。いやば凄まじいまでの働きが起ってくるのでございます。
今日久しぶりにブラジルから手紙がまいりました。夏の御大祭のお初をを送ってきたんです。233名か、のお初をを送ってきたした。そして、その色々手紙を頂きましたが、今年はあちらは非常に寒が強い。今ちょうどあちらは真冬なんです。ね、雪が降る。最近では、霜がひどい。それこそ今日は億万長者であったかと思うと、明日はこじきの状態にならなければならない、こじきのような生活をしておった人が億万長者に、あっという間になれるのがブラジルだという風に書いてありました。(なんじょう?)(なんぎいっちょうなんびゃくちょうぶ?)というように畑を作るとですね、色んなものを作る訳でしょう。ところがひと(あさな?)霜が降ったらそれが全部(おや?)になってしまう。もう本当に天地の親神様の特別の(いる?)親先生の祈りの圏内にあって、南米中にね、日本のような(おおくな?)んー日本ぐらいの州が23ヶ所ある。有り難いことにそれは、いっぺん、それは点々とであろうけれども、あらゆるあちら、あの州にもこの州にも合楽の信心が分かった。今日の手紙は、何とかっていう弁護士さんが今度何とか町に弁護士の事務所を作られた。何とか合楽じゃった?会計事務所合楽という、もう合楽に(けいと?)してしまっておられる。ね、もうそのこ色々まぁ聞かせて頂いたんだけども、これから合楽の先生方がまぁ南米布教と何かなさるにも、その弁護士さんあたりのあれがあると、そうゆう新聞の切り抜きも何枚も送ってきておりましたが、その宗教者に対する、少しこうゆるやかな、働きが起ってきたといったような新聞にでております。そうゆう新聞を送ってきてたんです。ね、その各州に今年はブラジル(こうかく?)もうとにかく、例年にない考え厳しい。それで、ひと朝まぁ雪のような霜が降ったと。ところが何ともうその御信者さんの大きい農場を持っておる方で、4、5件ぐらい書いじゃったかね?なんなんさんという人の農場でその(なんじゃくしょうならなんじゃくしょなりちょなりちょ?)のところだけが霜がおりていないっち。それが一ヶ所、二ヶ所ではない、そこもここもとにかく神様の偉大ないうなら凄まじい働きにはおそれいっておるということが書いてございました。
今度の100年祭を目指して南米から団体参拝を思い出しました。20名以上にならんと団体は組めない。もうおかげで20名をとっぱいたしました、と言っております。あちらとことらの金の価値が違うから、私どもが御本部参拝するのと大変な違いなんだ。ね、もう数年後にいうならばつかえられる100年祭。ね、合楽というところはどんなところだろうかと胸踊らせて、お参りをしてくる信者さん方がございますでしょ。ね、そうゆうね、神様の凄まじいまでの、働きというのがね、南米の地に起こっておる。ね、それこそ止むに止まれん。そうゆういうならば、海外布教精神であちらへ先生が参りまして、ね、頂いておるおかげはもう本当に数限りないそれも、驚くばかりのおかげを受けておる。習慣も違えば言葉も違う。そうゆう中でいうならば人類の助かりというものが、(なりえて?)おる。ね、そうゆう助かっていく人たちが今合楽で言われておる、合楽理念。今日の御理解でいうならばね、おかげに誘われての証拠となしの信心からね、どうぞその身から打ち込んでの真の信心にといういわれる真の信心に打ち込んでいくということ。ね、それをまぁ私どもが実験実証、それを手立てとして、な今日、梅山さんが頂いておりますように、合楽の信心を頂いたら、ね、何をか頂いて帰らずには、お土産を持って帰らずにはおかんという構え。そのお土産も、ね、船にも車にも積めぬほどの神徳があるという御神徳を頂いて帰れる信心を頂いて頂きたい。ね、それにはね、いうならばさぁ16日の夏の祈願のお祭り、お願いのお祭りだけん今度のお祭りは誰でも参らなでけん。そして回りもこれも一生懸命お願いをする。いいです。ね、そのお願いのお祭りですからお願いしなければならんのですけれども、その祈りも少しはあかぬけした、一廻りは大きくなった祈りが祈れれるような信心こそ私は真の信心だというふうに思います。
ね、お互いの信心をいうなら真の信心。先ほど徹美先生が申しておりますように、ね、かいいときにかかずにはおれないように、親孝行もね、せずにはおれんという心。信心もまたせずにはおられないという心。ね、おかげ頂くけんお参りしよるととという信心から、真の信心を目指しての信心。合楽理念に基ずく真の信心を教導するならば、もうとにかく有難うして、楽しゅうして、ね、参らずにはおれないことになってくる。ね、その合楽理念の一つを、な、実験実証させて頂いても、それこそお土産は船にも車にも積めぬほどのものが頂けれる楽しさ、喜ばしさ。ね、そうゆうおかげを頂かせて頂くためにも、ね、つけやきばの信心からその身から打ち込んでの真の信心を目指さなければなりません。その真の信心の現れ、それが16日の祈願大祭にも現れてくるようなおかげを共々に頂きたいと思います。
今日延岡の田中先生から電話がかかってまいりました。延岡の地区の共励会に初めてこちらから、幹三郎が先頭で、文男先生、それから戎浦さんやらまでも参加された。もう、高鍋あたりから宮崎あたりからまでもみんな見えられて、大変盛大にその、もうみんなが喜んで感動して帰りましたと。これは今日の、(ふるや?)先生からのお届けでしたけれども、また同じことを言うておる。もうとにかく今度の共励会はみんなが帰る道々おかげを頂いて有り難い有り難いで帰りました。中に息子さんがちょっとノイローゼぎみの息子さんが夫婦でお参りさせて頂いて夫婦のものが今日のは本当に良かったね、おかげ頂いた良かったね、というて、かえ帰らせて頂いたら、もうだんもりこの人は物を言わんようになるんです、頭にくると。その物ゆわんとがもう気安く物いうちから今日は、(何もかも?)気分がようして答えんっち、夫婦のものが顔を見合わせて、本当に夫婦のものが心が開けて、有り難いお話を頂いて有り難かった、有り難かったで帰ったら、うちではそうゆうおかげを頂いておった。そして息子が申しました。同じ病気で何々病院で入院しておられるという人のところに僕とお母さん一緒にお話に言ってくれという。それで昨日はそのお母さんとその息子と二人でお導きに行ったという電話でございました。ね、頂いたおかげがもう本当に有り難い。ね、いやばもったいない、有り難いというお土産を持って帰らせて頂いたら、うちではそうゆうおかげを頂いておったというのです。ね、いうならば頂く構えです。私宮崎まで行ったことないじゃけど、よく知りませんけれども、高鍋と延岡がどのくらい離れておるか、宮崎とどのくらい離れておるか分からんけれども、大変という道のりだそうですけれども、ね、合楽から先生達がみえるのだというので、みんながま、お参りさせて頂いてね、本気にな、の構えで頂いて有り難い有り難いで帰らせて頂いて、ね、これはこの人一人のことでありますまい、みんながやはりおかげを受けたことでございましょうがね、とにかくもう有り難い、もうとにかく途中で落とすなことは、忘れずとは出来ないような、いうならばおかげの頂ける内容をね頂きたい。それにはどうしても一つ真の信心を目指させてもろうて、ね、どうなかして、例えばなら今日のお土産というのがね、土を産みだすとある。ね、のこの信心でお父さん、もうこれに極まったじゃないと。例えば夫婦のものが話し合ってそのことを実験してまいりましたら、難しい問題であれば問題であるほど実証がたやすい、実証がはっきりしてくるというね、おかげ。そうゆうおかげを頂いていったらです、もう信心はするなというてもせずにはおられん。ね、お参りせずにはおられない。もうたまらんほどに信心の求道の心は起こってくる。ね、そうゆう信心をいよいよ目指して頂きたいと思います。どうぞ。